昭和51年09月09日 朝の御理解



 御理解 第4節
 「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」

 両方からの恩人と。だからその恩人に対する私共が、どれ程しのお礼が出けておるだろうかと。本当に金光大神を恩人と思うておるだろうか。本当にもし教祖金光大神様、この世に居ましなかったら、居まさなかったら今日の私はない。又今日の皆さんもないと言うて良いかも分からない。本当に大恩人である。その大恩人様である金光大神様に、どれほどのほんならご恩返しが出来ておるだろうかと。恩と言うには必ず恩返しというものがなされなければなりません。ただ恩を感じておるというだけではいけません。
 天地の親神様もそういう意味でです、金光大神に恩返しの働きを見せておられます。まさかの時には天地金乃神と言うにおよばぬ、金光大神助けてくれと言えば助けてやると仰せられる程しのです。金光大神のいわば顔を立て抜いて、天地の親神様がおかげを現して下さる。これは金光大神への神様が金光大神は私が世に出た事のための恩人じゃと。だからその金光大神が言う、金光大神が頼む言ならば、どんな事でも聞いてやろうと言う様な姿勢をです。天地の親神様が示しておられると言う所が素晴らしいですね。
 そんならそれを受ける方の氏子も、やっぱそうでなからにゃいかんのです。双方からの恩人。その本当に恩人といいながら、その恩人に対する恩返しがどれだけ出来ておるだろうか。毎日参りよりますお供えもしよります。けれどもそれはおかげを頂かんならんからです。参りよっとです。またの御理解に「頂くという心あらば、触ることなし」と言った様なのがありますね。
 煮て食する時に例えば食べ物でもです、神様頂きますという心あらば、触る事ないとこういう。私はね金光大神への第一の御礼は、私共が全ての事に頂くという心で、頂かせてもらうと言う事だと思います。此方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんと教えておられますから、その喜びをいよいよ極めて行くところの信心をさせて頂きますとです、一切が有り難いという頂き方が出来るようになります。
 もう以前の事でしたけれども、「先生もう今日も辛抱しとったけれども、辛抱しきれずに家内を叩かせて頂きました。」ち言う人があった。「ほんに叩かせて頂いたら、そらおかげ頂くばい」ち言うてあげた事がありますがね。例えば夫婦喧嘩でもさせて頂くという心があるならばおかげ頂くです。自分が今まで悪い言と思うて負った様な言でもです、させて頂くという心があるならば、神様は責めなさらんです。
 昨日土井の久富勇さんのお届けに、今日があちらの毎年今月の今日が謝恩祭であります。もうどういうそれこそ本当にどういう難儀な中でもです、やっぱ頂き何十年間頂き続けられました。もうこれは絶対のものとして頂かれる。いうならば宅祭りをさせて頂く。もう今年だんもうこげな風で、難儀ななかですから御無礼しますと言う様な事は一遍もなかった。あぁいう次々と難儀な事が続かれておる仲でも、もうしかも皆さんご承知のように、あれだけ沢山な人がお参りをして、沢山な人のご直会だけでも大した事です。
 それにあの神様の前にそれこそ大祭のような、教会の大祭の様なお供えを整えられます。何時もの事です。もう今年も早くからその取次ぎを願うておられましたが、昨日お届けをされますのに、本当に神様のおかげを頂きまして有り難うございますと。宅祭り宅祭りとお願いさせて頂いておりましたが、十日にしか入らないお金が昨日ですですから八日。もうこげなこつは初めてでございますが、八日にその金が入金入って来たとこう言うのです。おかげで宅祭りをさせて頂きますと、こういうお礼お届けがありました。
 もう宅祭りを絶対なものとして頂くと言う気になったら、もう絶対それこそ絶対頂くのですから絶対頂くです。御本部参拝でもそうですよ。金銭のお繰り合わせを頂いたならば、また都合お繰り合わせを頂いたならば、お参りさせて貰おうと言う位の事じゃ、本当のおかげにもなりませんし力にもなりません。御本部参拝だけはどんな事があっても、絶対と決められるところに、もう絶対のおくり合わせと絶対のおかげを頂きます。金銭の上にでも。私共信者時代に親教会から御本部へお参りをさせて頂く。もう絶対。
 もうそれこそ最後の頃には妹が、自分の主人の形見まで売って旅費を作ってくれました。私の絶対の心に妹の心が動く訳です。ある時の大祭の時に、教会で全部お参りをされる御信者さん方の、その時分は久大線の善導寺から乗りよりました。あの時分な軍服を着て、こう雑嚢かろうてね、もうそれこそ終戦直後ですから、そういう大変な険しいお参りの時分でした。汽車なんかも窓から入らんならんという時代でした。私はもうそのお参りのところがそのどうしても、お参りの旅費が納められない。
 それでも絶対参る積りでおりますから、ちゃんと用意をしてこうやってそのもう本当に私は、弁当なんか持って行くてんなんてんち言う事はもう考えませんでした。家内がまぁ色々工面してお弁当作ってくれますと、私はそれを頂かずに子供達のお土産に持って帰りました。そういう険しい御本部参拝の時分でした。その日も御信者さん方のいいよるなら、ずうっとお世話させて頂いておりましたら、私が準備をしてちゃんと雑嚢かろうてこう来とりますもんですから。
 私のまぁ私ファンのお爺さん、山口つぁんという方がおられました。私がもう行く準備をして来とるもんですから、「いや大坪さんあんたおかげ頂いたばいな」と、その旅費を私が納めとらんとを知っちゃったですから。「おかげ頂いたばいな」と言わっしゃったけん、「いいえまだ納めとらんけん、」ち言うた。「この人ばっかりはあきれた」ち言うて、山口つぁんが呆れられる位でした。もし出来んなら、善導寺の駅まででもついて行くつもりでした。
 それを傍で丁度お参りをしてから、聞いておったのが正義先生の姉さんの茂代さんでした。わぁそんなら「実は私は今日はお参りするごつ申し込んどっとった」ち、けれども「都合でお参りが出来んごつなったから、大坪さんほんなら貴方が代わり参って下さい」ち。「ほうらおかげ頂いた」ち言う様な事でした。だから私は茂代さんに、椛目時代一生懸命一緒に参ってきよったけんね。
 「私があんたがおかげ頂かん筈は絶対なかばい。」ち。私が「あげな時にあんたが助けてくれとるから、もう絶対おかげ頂かんこつなかばい」ち、私は言いよりましたけれども、その後色々な事で不信心になってお参りが出来んごとなり、この頃から時々参って来る様になり、この頃からその娘が具合が悪うなった。そして娘が信心のない娘がどうでんこうでん、お母さん合楽へ連れて参ってくれというもんだから、それこそ牛に引かされて善光寺参りで、一生懸命また参って来る様になった。
 だから自分の事はもう大体おかげ頂いておるけれども、娘がそういうとやっぱりあの、ほんならどうでんこうでんいっちょ、おかげ受けんならんという気持ちになって、お参りをさせて頂く。もうそれこそ昨日一昨日でしたか、久富先生があそこへ坐っておられる。おかげを頂いて明日から学校へ行きます。そしてお願いしておりました、その月のものの時にはもう大変生理痛があって、休まんならんごつあった。
 それがお願いをしてもうこっから、お願いをして帰らせて頂いたら、もうあの生理が始まったけれども、もう嘘のようにその生理痛がなくなったという、お礼参りをしてきております。「ほうらの茂代さんあんたが本当に、やっぱあんたがおかげ頂かんはずはない」と言うてもです、おかげを頂く気にならなければ、おかげは受けられんと言う事が分かりましょう。
 まぁ今日は私がなら御本部参拝は、絶対のものとして頂くというその事、ほんならこれはまぁ余談ですけれども、そういう話がここに嘘のような話ですけれども、残っております。皆さんこの頂くと言う事にならなければ、だからもう本当にお粗末な事もありますけれどもね、お粗末な事で相すみませんけどもね、そのお粗末にさせて頂きましたという心あればおかげです。例えば普通で言うなら、まぁ極端な言い方ですけれども、悪い言でもです、させて頂くという心でするならば、それは必ずおかげになるです。
 金光大神への私はご恩返しと言うのはです、金光大神が教えてくださった事を違わぬようにという、そのところがありますがです。せめて御道の信心させて頂くならば、全ての事をさせて頂くという気になる。先日から繁雄さんも言っておられるように、御用でもさせて頂くさせて下さいというところから、させて頂くと言う事になって、初めて御用が御用としてのおかげになるのです。例えば御本部参拝とか、勇さんの言うなら宅祭りと言った様な事は、素晴らしい神様がお喜び頂ける事だから。
 同時にまた絶対のものがあるから、おかげを下さる訳ですけれども。私共人間生きていく上には様々なお粗末御無礼な事も、あえてしなければならない様な事がありますけれども、そういう時にあの心に引っ掛からんでです、させて頂くという心にならばおかげがあるです。そういう素晴らしい事を体得させて頂きましたと言う事が、金光大神への私はご恩返しだと思うです。皆さんが言われますよね。お参りさせて頂きました何々させて頂きましたと、皆さんが言うておられるその頂きましたと言うだけではいかんのです。
 頂きましたというからにはです、何でもこう頂くでしょう。頂きましたらね有り難いという心が湧くでしょうが。ただお参りさせて頂きましたと言うて感動もなぁんもない、お参りさせて頂きましたではおかげにならんのです。頂きましたならばですそこに感動が伴う、有り難いという心が伴う、頂きまして有り難うございましたという、感動が伴う頂き方でなからなければおかげにもならんし、金光大神へのいうならばご恩返しと言う事にもなりませんです。
 今日私は双方からの恩人は、此方金光大神と教えておられます。天地金乃神様ご自身が、金光大神への言うならご恩に応えて、金光大神の言う事に、金光大神の言う事ならばです、天地金乃神と言う事は要らん。まさかの時には金光大神でよいとこう教えられておる。そしてそこにおかげという実証を見せて、金光大神へのそれを私はご恩返しをなさっておられると私は思うのです。そこでほんなら天地の親神様だけが、金光大神が恩人じゃなくて、私共にも金光大神は恩人なのですから。
 先ずはほんなら恩人であるということが先ずわからにゃいけん。金光大神あって今日の私があると言う様な、分かったならばそこからね、頂きますという生活をさしてもらわなきゃいけません。もう全ての事に頂きますです。しかも頂きますと言うた限りならばです、頂きますのですから頂いたお礼が湧いて来る様な、喜びが伴う頂きますでなからなければならぬと言う事でございます。
   どうぞ。